言葉がグルグル

出水薫(いずみかおる)の断片

「事実」について(1)

「事実」は「ある」のではない。発掘の比喩で考えるのは筋が悪い。しかし日常的な話法では、「事実」は「ある」ものとして語られがちだ。

「事実」は共有を前提に語られるもの。誰にも語られない事象は、「事実」とは呼べない。

「事実」については、裁判の比喩がもっともしっくりくるのではないか。共有できるよう、語り合い、示しあって、「事実」を編み上げる。

 

「自律」について

私のことは、私が決める。私たちは、いつも「自律」しようとしている。
自律を求め続ける私たちは、産まれてくることを自分で決めたわけではない。
誰かが産むことを決めた結果、私たちはいる。
自律の底には、誰かの決心がある。
自律は、私だけが、完結して管理できる領域があることを前提にしている。そう考えるのは、私たちが黙考できるからだろう。誰にも知られず考えることができる領域が私たちにはあり、そこは誰も手が出せないはずだと信じている。
おおむね私たちは、その領域を、「内面」や「心」と呼ぶ。

内面に他者が介入することは、確かに難しいだろう。自分で完結して決めることができる領域と考えるのももっともだ。
ただ私たちは、内面で何かを考えるとき、経験や知識を前提にしている。それは他者とのかかわりから生じるものだ。それを踏まえると、自律の完結性は、あくまでも相対的なものになる。
そもそも私たちは、言葉を通じて考えるのであり、言葉は私のものではない。

できごとの周辺について(1)知っている人/知らない人

できごとの周辺には、ざっくりと、巻き込まれる人/飛び込む人/どちらでもなく知っている人/知らない人がいる。

知らないことは、存在しないことと同じ。

知ることで、関わりは始まる。なかったことにはできない。だから「知らなければよかった」という反応が起こる。